“WER MEINES SPEERES SPITZE FÜRCHTET, DURCHSCHREITE DAS FEUER NIE”から “ALLES IST NACH SEINER ART, AN IHR WIRST DU NICHTS ÄNDERN”へ キース・ウォーナー特別講演会

キース・ウォーナー氏

キース・ウォーナー氏

新国立劇場『ジークフリート』第2回公演を翌日に控えた3月29日夕刻、演出家のキース・ウォーナー氏が、多忙なスケジュールの中、東京芸術劇場中会議室で、日本ワーグナー協会のために特別講演を行いました。ウォーナー氏は、今回の『ニーベルングの指環』演出から昨今の演出事情についての考察まで、1時間半にわたって率直かつ雄弁に語り、世界オペラ演出のトップをひた走る鬼才から上演中の作品について話を聞く貴重な機会を得た80余名の会員は、熱心に耳を傾けました。講演会は、新国立劇場でウォーナー氏の通訳を務める角田美知代氏を通訳に、日本ワーグナー協会の鈴木伸行氏によるインタビュー形式で進められ、「さすらい人」に問いかけるミーメよろしく、まず鈴木氏から3問、更に会場からも3つの質問が、ウォーナー氏に投げかけられました。以下はその概要です。

質問1:主に第1幕から、テキストの解釈についてお聞きします。ウォーナー氏の演出は、ワーグナー作品を観る時、進行のためだけに準備された、または既成事実として、素通りしがちな箇所にスポットライトを当てるのが特徴的です。ウォーナー氏は、第1幕第1場で、ジークリンデの死とジークフリート誕生のいきさつについて、重要な問題提起をされています。

キース・ウォーナー(以下KW)『指環』4部作中、『ジークフリート』は、ある場面を舞台上でどのように見せるかについて解決すべき問題が他の3作品よりはるかに多く存在するため、一番困難な作品です。ワーグナー自身、『ジークフリート』を書く際に多くの困難に直面し、この作品に内包された問題を全て解決できたわけではなく、解決できなかった問題をそのまま放置していると思います。また、『ジークフリート』は、他に比べて断片的な作品です。

第2幕作曲中に、作曲の中断という危機的状況がワーグナーを襲います。これは、テキストを書く際に自ら作ってしまった問題点を、いかに音楽的、ドラマ的に解決するかで行き詰まったためで、その結果、彼は創作の勢いを失ってしまいました。とは言え、後に再び『ジークフリート』に着手した時には、素晴らしい解決法を見つけていました。中断の結果、『ジークフリート』には、他の作品とは異なった独特の雰囲気があると思います。

現代の観客にとって『ジークフリート』における最大の問題点は、おそらく主人公の性格その物でしょう。上演に6時間近くかかる作品が、ファシスト的なネオナチ青年を主人公としていたなら、関心を持ってそれを観ることは不可能だと思います。世界に突然出現して、殺したい人を気ままに殺すニーチェ的スーパーマンを、我々は英雄とみなさなければならないわけです。ですから、まず、『ジークフリート』という作品が何をテーマとしているかを確立することが非常に重要となります。

ワーグナーが興味を抱いていたのはニーチェ的考察ではなく、我々一人一人が人間として、英雄の旅を作りあげることだと思います。ここでの旅とは、世界中の神話のテーマでもありますが、人がいかにして子供から大人に、真に人間らしい存在になるかということです。

『ジークフリート』第1幕で、ジークフリートはミーメから情報の断片を与えられますが、この情報は真実の全てを語ってはいません。ここで興味深いのは、ミーメが情報を隠しているという点です。ジークフリートの問いに対して、ミーメは、父親の名前を忘れたと言います。ところが、20分後に「さすらい人」がジークムントの名を口にすると、ミーメはそれが誰であるかを知っているわけです。これらの瞬間は、出演者が役柄を心理的に発展させるにあたって、非常に重要な意味を持ってきます。

子供から情報を隠すこと、必要な教育を全て与えないことは一種の虐待です。子供にそれを受け取る準備ができているか、また、それを要求しているかも問題になります。この情報隠匿の問題を発展させると、ミーメがジークリンデについて話す内容に通じる道筋は一つだけでないことがわかります。多くの道がこの瞬間を出発点として始まり、作品全体に広がっていきます。これは、この作品中、非常に重要で意味深いポイントです。一例を挙げると、ジークフリートのミーメ殺しを、単なる醜い殺人ではなく、容認できる物とするためには、一体何が必要でしょうか?多くの観客にとって、ミーメ殺しは受け入れ難い行為であると思います。

私が暗示しようとしたのは、ジークフリート誕生の頃に、ミーメは恐らくジークリンデをレイプして殺したのではないか、ということです。この行為により、ジークフリートの母親と父親についてのミーメの情報隠しが、ある意味で象徴化されます。それはまた、観客が、ミーメの棺桶の蓋に打ち込まれる大きな釘の気配を感じる、最初の瞬間でもあります。これにより、ジークフリートのミーメ殺しは、多少なりとも正当化されるのではないでしょうか。

ワーグナー作品においては「語り」が非常に重要です。 ワーグナー作品の90%は「語り」で占められ、アクションはそれ程多くありません。これは、彼が大きな愛着を持っていたギリシャ悲劇に起因すると思います。「語り」を演出する際には、それを静的な物としない配慮が必要です。 ストーリーが、正にその瞬間に、その音楽と共にその人物によって、そのように語られる時には、常に、その人物に心理的動きがあるか、或いは、舞台上の他の人物になんらかの反応があります。ワーグナーのドラマ性はここに存在します。観客が「語り」を聞くのは、『ワルキューレ』や『ラインの黄金』を観なかったのでストーリーを知らないためではありません。ワーグナーが心理的なドラマを書いたから、私達はそれに耳を傾けるのです。

質問2:2幕については、今回の演出中、最も論議を呼ぶと思われる、動物の着ぐるみの登場についてお聞きします。森のシーンでは、一種の悪夢か、ドラッグによる幻覚を連想しました。これはジークフリートの視点ではないかと思います。恐ろしい物を、ある意味ディズニーランド的雰囲気で見せたことについてお聞かせください。

KW:ワーグナー作品における自然は、水のせせらぎや美しい木々というような、外面的な自然の表出ではなく、自然な物、観察者が世界に対して感じること、世界の中で純粋である物、超自然的存在です。私にとってのそれは、環境との調和や人間による環境破壊というよりは、ルソー的な自然、ルソー的理想の調和の中で感じる、人と世界の一体感のような物です。2幕でミーメが去った後、ジークフリートは、家から離れて世界の中に身を置きます。彼は、手に入れたばかりの事実に、自分の感情とそれまでの経験を結びあわせ、初めて熟考します。つまり、ミーメの影響を受けずに、初めて真に人間らしくなるのです。

この場面で目指したのは、子供から大人になる時に誰もがすることの暗示です。子供は、玩具やゲームを通して世界を理解するようになります。ジークフリートは自然の中で、目に見える外の世界を、彼自身が誰であるかと言う心理的観点から見るようになります。「父はどのような姿をしていたのだろう?」と彼は問い、「母は雌鹿のようだったかもしれない」と考え、ミーメと自分は全く似ていないことに気づきます。自然界でのこの経験は、ジークフリートにとって、子供時代の全てと、生まれつつある深層心理が一体となった瞬間なのです。

私達が暗示したかったのは、1幕でジークフリートが遊んでいた動物のぬいぐるみが、2幕では現実の物となることです。ジークフリートは、想像の中で両親の姿を垣間見、ヴォータンの影響を、何か外的なものとして感じます。ファフナーとファゾルトを意味するシマリス等が突然生命を持つことで、ジークフリートは、まだ全てがわかったわけではありませんが、子供なりの視点から自分の立場を理解し、大人になるのです。

また、演出には、厳格で重々しいだけでなく、ユーモアや、子供っぽいファンタジーの要素も必要だと思います。観客とジークフリートがこの時点で見ている自然を表現するために、遊び心のある、少しキッチュな物が欲しかったのです。自然には、巨人達や病気、破壊、痛み、死という、恐ろしい側面もあります。 でもこの時点のジークフリートは、まだそれを知りません。可愛いぬいぐるみのような理想化された自然を通して、彼は性格形成を行っているのです。

鈴木:森の小鳥が段々人間らしくなりますが。

KW:1幕の始めに出てくる熊は、ジークフリートの男性的側面を表わしています。彼の他の一面である女性的側面は、これまで彼から遠ざけられてきました。森の小鳥は段々人間らしくなり、女性的になっていきます。女性の存在に気づいたジークフリートを、次に性の目覚めが訪れます。ジークフリートは小鳥が口にする「ブリュンヒルデ」という言葉に女性を感じただけではなく、実際に女性の香りのようなものを嗅ぎ取っているのです。 それが第3幕へとつながっていきます。

キース・ウォーナー氏(左)と、司会・進行役の鈴木伸行氏(右)

キース・ウォーナー氏(左)と、司会・進行役の鈴木伸行氏(右)

質問3:『東京リング』の舞台上には、Heil Mime、Vacancy、そして、第3幕の防火幕に投影されるヴォータンの言葉等、文字による情報が多用されています。これらの目的は?

KW: ワーグナーにとって言葉はとても根源的な物です。「語り」については既にお話ししましたが、ストーリーを語るのに用いられる言葉は、必ずしも真実を語ってはいません。言葉だけでは十分に伝えられない、というワーグナーの感覚が、19世紀哲学のある運動とほぼ一致していることに驚嘆を覚えます。言葉による表現の限界についての危機感は、20世紀劇作の非常に重要な部分となりました。三島、イプセン、ピンター等の作品では、本文よりもサブテキスト、役者がせりふの背後に隠している事の方が重要になり、役者は演技によって情報を補います。本質的に、ワーグナーはこれと同じ事を行い、更にそれ以上のことをしています。ライトモチーフは一種のサブテキストで、時として、せりふに矛盾することや、全く反対のことを暗示します。 これらのライトモチーフは単に挿入されているだけでしょうか?それとも、ストーリーの構成物なのでしょうか?

今回の演出の文字情報は、論議を誘うために使いました。これは、現代社会における表現手段の本質についての、視覚的参照文なのです。私達が舞台上に文字を使ったことは、ある意味で、20世紀文学の不十分さを暗示しています。

防火幕に投影された2組の文字については事情が全く異なり、ヴォータンの心理的変化を明確に示すために使いました。『ワルキューレ』終幕でヴォータンは“Wer meines Speeres Spitze fürchtet, durchschreite das Feuer nie!(この穂先を恐れる者は炎の輪を超えるべからず! 白水社『ヴァルキューレ』より)”と言います。これは、大きな権力を持ち、法律を制定し、家族と世界を統治する偉大な指導者の言葉です。実は、この時ヴォータンは既に変化し始めているのですが、このセリフは明らかに、世界を治める指導者の物です。ところが、『ジークフリート』で彼はアルベリヒに“Alles ist nach seiner Art, an ihr wirst du nichts ändern”(誰にもめいめいの流儀があるものだ、それを無理に変えようとしても、変わるものではない。 白水社『ジークフリート』より)”と言うのです。ワーグナーによって書かれたこの二つの素晴らしいステートメントに、ヴォータンの性格と、私の『指環』演出の全てが集約されています。

19世紀哲学において、神・理想・宗教に支配されたユートピアニズムから、フォイエルバッハと共産主義へと、世界観を大きく変える運動が起こりました。全能の神が自ら、「もう神は存在すべきでない。神の役目から身を退く。人は自分で自らの道をみつけねばならない。他の方法は存在しない。もう人には干渉しない、」と言うのです。ヴォータンはジークフリートに干渉したいのですが、ジークムントとの経験から、それは不可能だと悟ります。このように、哲学的、心理学的に観客に大きく跳ね返ってくる思想を持つ劇作品を、私は他に知りません。神が人間を見捨てるのです。世界は自分自身の手で、自らの悲劇なり、救済なりを見つけなければなりません。これから先、全ては人間次第なのです