オペラトーク『神々の黄昏』

(2004年3月6日、新国立劇場中ホール)

序幕1場「3人のノルンの語り」を唄う(左から)中杉知子氏、小山由美氏、緑川まり氏

序幕1場「3人のノルンの語り」を唄う(左から)中杉知子氏、小山由美氏、緑川まり氏

去る3月6日、日本ワーグナー協会と新国立劇場の共催により、『トーキョー・リング』演出家のキース・ウォーナー氏(以下文中KW)と指揮者の準・メルクル氏(以下文中JM)を新国立劇場中劇場にお迎えして、「オペラトーク『神々の黄昏』」が開催されました。まずトーマス・ノヴォラツスキー新国立劇場オペラ芸術監督が、「日本ワーグナー協会と共同で本日のオペラトークが開催でき、また、大勢の方がこの『黄昏』公演に興味を示されていることを嬉しく思います、」と挨拶されてスタートしたオペラトークは、ドイツ文学者の舩木篤也氏が司会・進行及びドイツ語通訳、新国立劇場でウォーナー氏の通訳を務めるワシントン・寿代氏が英語通訳を務め、舞台場面の画像を見ながら進められました。 当日は、ノルン役の中杉知子氏、小山由美氏、緑川まり氏、ヴァルトラウテ役の藤村実穂子氏、ジークフリート役のジョン・トレレーヴェン氏、ラインの乙女役の平井香織氏、白土理香氏、大林智子氏も顔を揃え、序幕1場「3人のノルンの語り」、1幕3場「ヴァルトラウテの語り」、3巻1場「ラインの乙女たちの警告」の演奏も盛り込まれた充実の一時となりました。以下はその概要です。

司会:ワーグナーは様々な神話を題材としていますが、メルクルさんに、神話的な雰囲気を音楽で表わすとはどういうことなのかを伺います。オペラの始まりは賑やかな序曲であることが多いのですが、『黄昏』はとても不思議な雰囲気でスタートします。『黄昏』が変ホ短調で始まるのに対して、『ラインの黄金』の始まりは変ホ長調です。

JM:『黄昏』と『ラインの黄金』は、全く異なった音でスタートします。『ラインの黄金』は変ホ音でスタートしますが、始めは、長調、短調のどちらでもありません。これは、『ラインの黄金』が「質問」で始まるためで、最初に自然や事物の状態を表わす和音があり、それが、良くなれば長調、悪い方向に行けば短調になるかもしれないわけです。一方、『黄昏』は変ホ短調で始まり、これによって、これから非常にドラマティックで悲劇的な事が起こるということが観客にわかります。

司会:今お話に和音が出ましたが、演出家はそのような点を考慮してアイディアを練ることはありますか?

KW:オペラ上演にあたっては音楽を吸収することがとても大切ですが、『黄昏』ではそれが困難です。14歳で初めて『黄昏』を聴いて以来、長年にわたってこの作品に親しんできましたが、演出の際には、常に初めてそれを聴くようなフレッシュな気持ちで取り組み、音楽が何を意味しているかを理解しようと努めることが重要です。『黄昏』が私を驚嘆させるのは、最初の和音が前3作品の内容をまとめている、というよりは、これからとても恐ろしいことが始まると告知しているためです。まるで、トランペットが悲劇の訪れを布告するようです。最初の和音が表わしているのは完全な闇なのです。

序幕2場でジークフリートとブリュンヒルデが唄う愛の二重唱でさえ、喜びの瞬間であるのに不安が忍び込んでいるのが感じられます。燃えあがる愛を唄っているにもかかわらず、愛することの不安、裏切られることへの恐れ等が音楽の中に満ちています。 続く「ラインの旅」は、『黄昏』全体で唯一、喜びにあふれた音楽ですが、それすらもギービヒ家の音楽に毒されています。ジークフリートの音楽が、ハーゲンに支配されたギービヒ家の音楽に変わっていく様は、あたかもライン川が下水に汚染されていくようです。

オペラトーク『神々の黄昏』での(左から)指揮者の準・メルクル氏、通訳のワシントン・寿代氏、演出家のキース・ウォーナー氏

オペラトーク『神々の黄昏』での(左から)指揮者の準・メルクル氏、通訳のワシントン・寿代氏、演出家のキース・ウォーナー氏

司会:ウォーナーさんに神話とテクノロジーの関係についてお聞きします。『ラインの黄金』第1場の映画のスクリーンはとても印象的です。また、『ワルキューレの騎行』では、倒れた戦士をワルハルに送り込むワルキューレの様子が、現代医療という1つのテクノロジーの場として描かれています。

KW:『指環』に限らず、『トリスタン』、『パルジファル』等、ワーグナー作品の基本構造で私が常に驚嘆するのは、原型となる神話的主題と、19世紀当時は近代的だった自然主義的な思想、哲学、心理学が結合している点です。ワーグナー作品では、神話的主題と自然主義の対立がもたらす緊張関係が常に主要なテーマとなっており、全作品にこの2つの世界が登場して議論を闘わせ、2者間の相違を明確にしています。原型となる神話的主題を、自然主義や、人間等、ノーマルな物を通して見る一方で、人間の立場を、思想的、哲学的、政治的、社会学的潮流というマクロコスモスを通して見るのです。我々にとってのテクノロジーは、マクロの一部、つまり、より大きな全体像の一部であると同時に、世界を変革した物でもあります。作品の中心としてテクノロジーを位置づけているのではなく、それはあくまでも、作品を見せる為の枠組として導入されていると言えるでしょう。

司会:メルクルさんにもご意見をいただきたいのですが。

JM:我々は今、オペラ上演に最新メディアを取り入れるという実に興味深い時点に立っています。 芸術には色々な形態があります。美術館・博物館に収容された作品は保存され、創造された時のままの姿で見られるのに対し、舞台芸術の演劇、特にオペラの場合、事情は全く異なります。テーマは恋愛・名誉・金銭など普遍的ですが、上演される時代の新しいアイディアを取り入れて、常に再創造が試みられるためです。表現手段が進歩しているのですから、それを演技や装置などに使って舞台を更に洗練させるのは、当然のことでしょう。典型的な例が照明で、現代では蝋燭やガス灯等、19世紀の照明は使われません。ハイテク照明を利用することで、以前は見えなかった舞台上の部分も見えるようになりました。将来的には、日本のハイテクによって、舞台上で3Dが使われるかも知れません。

その一方で、演奏者や指揮者は、いつも同じ道具を用いるという基本的問題を抱えています。オーケストラは19世紀から進歩して技術水準が高くなっていますが、基本的には昔も今も変わりません。音楽の水準やスコアに基づいて演奏者や指揮者が作り出すものと、技術面の進歩には大きな開きがあります。ハイテクの利用が上演に貢献しているかどうかを最後的に決めるのは観客です。

1幕3場「ヴァルトラウテの語り」を唄う藤村実穂子氏

1幕3場「ヴァルトラウテの語り」を唄う藤村実穂子氏

司会:藤村実穂子さんに、1幕3場から、オペラ史上でも珍しい叙事的な語りである「ヴァルトラウテの語り」を唄っていただき、メルクルさんにインタビューしていただきます。

JM:藤村さん、あなたは既にフリッカを歌い、今回はヴァルトラウテを歌われますが、演技者として、歌手として、この2つの役の違いについてお話しいただけますか?

藤村:まずフリッカですが、私は常に、「自分がこの立場に立たされたらどう思うだろう?」と考えて役に取り組みます。夫であり神々の長であるヴォータンは、神々の女性だけではなく、人間の女性にまで手をつけてしまいました。現代なら即離婚ですが、フリッカはそれができません。その背景には、フリッカが結婚の女神であるということの他に、彼女がまだヴォータンを愛しているという可能性が存在します。

私が今回の演出で大変素晴らしいと思うのは、この可能性に着目した点です。一方ヴォータンにとってもフリッカは、片目を犠牲にしても手に入れたかった特別な存在です。そのような中で何十年もの時が経過しているのは、フリッカにとって、極端にフラストレーションのたまる状況でしょう。彼女は、苦しい自己矛盾の中で『ワルキューレ』2幕始めまで我慢していますが、ジークムントとジークリンデの近親相姦が許せずに介入します。このような状況からおわかりいただけるように、フリッカの語りは「sprechen話す」ということだと思います。大まかに言えば、メロディックなレチタティーヴォという言い方も出来るかもしれません。

ヴァルトラウテの場合、立場は全く違いますが、フラストレーションがたまっている点はフリッカと同じで、その上コンプレックスも持っています。なぜ『黄昏』で、彼女一人がヴォータンの掟を破ってまでブリュンヒルデの所に来るか、ということがとても重要です。ワルキューレは非常に勇敢な女性戦士達ですが、その中でも1番がブリュンヒルデ、2番目がヴァルトラウテでしょう。極端に切羽詰った危機を目前にして、ブリュンヒルデの所に来る勇気があるのは大変なことです。でも、ヴォータンのお気に入りは常にブリュンヒルデで、ヴァルトラウテは2番以下でした。ヴァルトラウテにはブリュンヒルデに対する複雑な思いがあると思います。これだけの危険を冒して来たのに、ブリュンヒルデは聞く耳を持たず、ヴァルトラウテは、目標を達成できずに帰ることになります。非常に複雑な心理面を持っているという点で、フリッカとヴァルトラウテの2人には共通する物があります。

ヴァルトラウテを唄う時に私が大切にしているのは、ビジョンを持つということです。「ヴァルトラウテの語り」はErzahrungと言われるように、私は物語だと考えています。物語とか神話には、人の心の奥底まで癒す力があると思います。それを物語る時、目前にヴォータンの怒り、諦め等を描き出してブリュンヒルデに伝えられるよう、しっかりしたビジョンを持つ必要があると考え、それを心がけています。

役作りについて話す藤村実穂子氏と、指揮者の準・メルクル氏、演出家のキース・ウォーナー氏、通訳のワシントン・寿代氏、司会・進行役の船木篤也氏

役作りについて話す藤村実穂子氏と、指揮者の準・メルクル氏、演出家のキース・ウォーナー氏、通訳のワシントン・寿代氏、司会・進行役の船木篤也氏

JM:藤村さんは『黄金』から『トーキョー・リング』に関わってこられましたが、これが他の『指環』サイクルと比べて、どのような点で特別なのかをお話しいただけますか?

藤村:『トーキョー・リング』は「伝えたい」ことが沢山あるプロジェクトである点が他と違います。何しろお客様に伝えたい。皆さんも舞台をご覧になって思いは沢山あると思いますし、それを大切にしていただきたいと思います。ただ、舞台稽古の時点で指揮者が来て、演出家と指揮者の間で対話が豊富にあるプロジェクトは余りありません。その点で、これは、一つ一つ確認しながら積み上げてきた建設的なプロジェクトだと思います。私はバイロイト等で『トーキョー・リング』について質問される時に、「本当にすごい!」と答えられることをとても誇りに思いますし、これは新国立劇場だけでなく、日本全体が誇りに思うべきプロジェクトだということを、ヨーロッパで働いているアジア人として非常に強く感じています。

司会:ウォーナーさんにもヴァルトラウテのシーンについてお聞きしたいのですが。

KW:指揮者や出演者にとり、1人又は2人による長い語りを如何にしてドラマとして成立させるかは大きな問題です。それを可能にする唯一の方法は、語りを、過去に起きたことを話しているとするのではなく、語りによってその時点で起きている語り手の潜在意識下の「人格の変化」を表現し、観客にもその変化を、潜在意識下で伝えることです。「ヴァルトラウテの語り」のような場面は、常にアクティブである必要があります。語りは、物語を先に進めるような形であるべきです。語り手と聞き手を取り巻く状況について、観客により多くの情報を伝えるべきで、静的、受動的であってはいけないのです。

司会:叙事的語りに費やされる長い時間は、指揮者、演出家にとっても腕の見せ所だと思いますが、表現上でどのように利用なさっていますか?

JM:長い語りの場面では、ストーリーを効果的に伝える為に、音楽と演出の一体化に努めてきました。ウォーナー氏とは4年の間に信頼関係を築くことが出来、共に、大変興味深い経験をしました。「ヴァルトラウテの語り」の場面については、2人の歌手が舞台上で過ごす20分間をどのように見せるかを決めるため、ストーリーの中身、原因、背景等について議論を重ねている間に、20分間が少しも長く感じられなくなりました。より多くのモチベーションと感情を見つけ出そうと努力する内に、音楽と舞台が一体化して、ストーリーがあのように展開するのが自明のこととなりました。どの場面もチャレンジングです。リハーサルの過程で大小の新しい発見をし続けましたが、緊密な協力関係の下で作品に深く関われば関わる程、各瞬間が益々チャレンジングになるものなのです。

3巻1場「ラインの乙女たちの警告」を演じる(左から)大林智子氏、白土理香氏、平井香織氏、ジョン・トレレーヴェン氏

3巻1場「ラインの乙女たちの警告」を演じる(左から)大林智子氏、白土理香氏、平井香織氏、ジョン・トレレーヴェン氏

司会:ウォーナーさんに性的な問題について伺います。ラインの乙女達は純粋無垢な存在ではなく、『黄金』ではアルベルヒ、『黄昏』3幕1場ではジークフリートに対して、性的な挑発をします。ウォーナーさんの演出では、性的な問題と権力との関係が深く考察されていると思います。

KW:『指環』において性的な側面は、個人の成長と言うもっと大きな問題の一要素に過ぎません。人間の成長には、精神面、個性、性的側面の他、社会的側面もあります。社会に如何に適合するか、他の社会との付き合い、また、人種、国家なども関わってきます。

現在は21世紀初頭ですが、これまで性的なことについては、フロイトやラカールといった多くの作家が多様な考察を発表してきました。また、ワーグナーの自叙伝についてご存知なら、性的な事柄が人生の中心的原動力であることがおわかりになるでしょう。性欲が無ければ私達は存在しません。更に、多くの作品において、ワーグナーの創造欲も性的問題と深く関わっているように見えます。とは言え、それはあくまでも、ある段階から次の段階への人間の意識の成長という、より大きな成長過程との関係においてのことです。一例を挙げると、私達は『ジークフリート』で、この作品が、最近の演出によくあるネオナチの不良少年を主題とした物ではなく、人間全てに共通する成長の物語であることを明確にしようと努めました。私にとって『ジークフリート』は、子供から大人への人間の精神的成長を描いていて、そこには、象徴的、具体的に性的成就がからんできます。でも、問題となっているのは、あくまでも人間の成長です。ジークフリートの、そして、ここにいる全ての人達の成熟への旅で、この作品で取り扱われているのは、特定の人物に関する例外的な事柄ではないのです。

司会:『ジークフリート』2幕1場でのジークフリートも成長段階です、女性を知る前で、性的体験の最初の段階の前にいるとも言えます。ラインの乙女達は最初のうち赤ん坊のような状態でいて、成長過程を経ます。

演出家のキース・ウォーナー氏

演出家のキース・ウォーナー氏

KW:ラインの乙女達は3段階で成長しますが、性的な成長というよりは、子供が大人になっていく普通の発育過程を表現しています。最初、ラインの乙女達は子供が話し出す以前の状態で、言葉にならない「ヴァアヴァーラ」という音で唄っています。これは、インド・ヨーロッパ言語の元となっているサンスクリット語の基本的な音です。ワーグナーは、言語の誕生、人間が遊ぶことで動作を始めること、そして、遊びに男女間の遊びが加わっていくことを示そうとしたのだと思います。男女間の遊びはエロティックな物に転じていきますが、『黄昏』でラインの乙女達がジークフリートに対して意図的に性的挑発をしているとは思えません。彼女達は他にほしい物があるため、性的なことはそれ自体では、もはや重要でないのです。

来場者からの質問1:ウォーナーさんにお聞きしたいのですが、これまでの3作を通して、アメリカ文化がこの演出にどうかかわっているかをお教えください。

KW:政治のみでなく、食文化、映画等、アメリカの影響は世界の至るところに存在します。アメリカの影響を受けない先進国はありませんし、途上国も、アメリカの植民地化の影響を受けています。私自身は、今回の作品をアメリカ的、または、アンチアメリカの立場で演出してはいません。どこか特定の国に置き換えてはいませんが、『指環』を扱う時には、その時代の社会を舞台上で取り扱うことがワーグナーにとっても重要だった、と考えています。現代社会の抱える問題や直面している事柄を避けて『指環』を上演することは不可能です。権力、テクノロジー、世界秩序等に関するアメリカの思想は確かに大きな影響力を持っていますが、それを意図的に演出に反映させてはいません。

質問2:ウォーナーさんがメルクルさんの助言によって演出プランを変えた所、メルクルさんがウォーナーさんの演出によって音楽を少し控えたところがあれば、お教え下さい。

指揮者の準・メルクル氏

指揮者の準・メルクル氏

JM:特に数年に及ぶ大作の場合、私は基本的にパートナーの仕事と責任を尊重し、演技や技術面での彼の判断を受け入れます。リハーサルの過程では、音楽と演技が一体化する箇所について、その場面を如何にするかアイディアを出し合います。視点の異なる私達が議論を重ねることから緊密なパートナーシップが生まれ、率直に音楽上の意見や演出上の疑問を交換できるようになりました。意見の一致を見られない場合や、彼のアイディアが理解し難い時に、最終的決断を下すのはウォーナー氏で、私はそれを受け入れます。私は、それが、パートナーシップを確立し、尊重する上で重要だと考えています。

KW:ワーグナー楽劇では、音楽、演技、場面、アイディアが全て同様に重要ですし、それらのバランスが取れていることが心理学的見地から見て不可欠です。この5年間、議論はあってもメルクルさんと喧嘩をしたことはありません。あらゆることについて論議を重ね、関係者全員がクリエイティブな時を持てたと思います。私は、演出家にとって最も重要なのは、リハーサル室にクリエイティブな雰囲気を作り出すことだと考えています。ですから、出演者も自由に考えを表明し、見解の相違がある時は話し合い、ほとんどの場合、良い結果が生まれました。この5年間、リハーサル室では1度も大きな争いが起きませんでしたが、これは驚くべき事です。実は、ワーグナーが根本的に目指していたのもこれなのです。彼が目指したのは、イタリア・オペラに多く見られるように、歌手が舞台に直立して観客に向かって唄い、音楽が観客を包み込むと言うことではありません。彼にとっての音楽は、アクティブ、政治的で、命を持つ物でした。音楽は利用されるべきです。リハーサルを利用して、音楽をアクティブで論議を呼ぶような物としなければならないのです。