ペーター・コンヴィチュニー特別講演会 「ワーグナー演出を語る」

2008年9月1日於:東京ドイツ文化会館ホール

去る9月1日、オペラ演出の奇才ペーター・コンヴィチュニー氏を東京青山のドイツ文化会館ホールに迎え、日本ワーグナー協会第292回例会特別例会が開催されました。コンヴィチュニー氏は二期会の『エフゲニー・オネーギン』公演のために来日したもので、二期会のご厚意により実現した今回の例会では、ワーグナー演出を中心に、ご自身のお仕事について映像をまじえ、蔵原順子氏の通訳でお話しいただきました。『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』、『トリスタンとイゾルデ』、『パルジファル』、『神々の黄昏』と、特にワーグナー作品では挑発的とも言える演出を次々と発表し、常に大きな注目を集めて論議を呼ぶコンヴィチュニー氏の肉声を聞こうと、多くの会員が意気込んで集まりました。以下はその報告です。

ワーグナーとコンヴィチュニー氏
『ニーベルングの指環』に込められたワーグナーのメッセージ

20080901_1今日はこうして皆様の前でお話しすることができ、大変嬉しく思います。私はこれまでに、『ニーベルングの指環』の最初の3作品を除くワーグナー作品すべての演出を手がけて来ました。ワーグナーは作曲家の中でも最も偉大な人達の1人だと考えています。なぜワーグナーはそんなにも偉大なのでしょうか?それはワーグナーが恐らくは最後の1人として、西洋の歴史をひとつの弧(Bogen)を描くような形で説明している人物だからだと私は考えています。とりわけ『ニーベルングの指環』においては、フンボルト、或いはカール・マルクスのように、包括的に西洋の文化と物語を描いてみせています。

そして、ワーグナーはどちらの側に立っているのでしょうか?彼は被害者の側に立っている。その被害者とは自然であり、女性達です。それは、西洋の文明化が5,000年前に始まった時から、男性には何かをする、何かを起こす、行動するという役割が与えられているのに対し、女性達はそれに従属しているだけ、それに当てはめられているだけの存在だからです。このシステムを維持するためにはひとつのイデオロギーが必要となります。このイデオロギーと共に、ひとつの価値、価値のシステムが出来上がりました。そしてこのシステムが、何がいとおしくて価値ある物か、貴重な物かということを教えてくれます。

このシステムで1番上に来るのは権力と所有で、最下位にあるのが愛です。だからこそ100年前から心理セラピストという人達がどんどん出現してきました。消費者の増加に伴い、消費者の心理的問題を解決する人が増えてきたわけです。ワーグナーはこのことを『ニーベルングの指環』ではっきりと伝えています。ワーグナーはこの作品で、「私達の人生を権力と所有の上に作り上げるのか、それとも愛の上に作り上げるのか」という問いを明白に突き付けてきます。そして権力の上に人生を作った者はすべて、いずれは死ぬ運命にあるのです。

ご存知のように、『ニーベルングの指輪』の前史は、ヴォータンが宇宙樹から枝を折り取るところから始まります。ヴォータンはそこに新しい法律を刻み込もうとしますが、それによって宇宙樹が朽ち果ててしまったことを、私達は『神々の黄昏』で知ることになります。つまり新しい法律、家父長的な法律、権力と所有の代償として、私達は自然を失うことになるわけです。そして『神々の黄昏』の最後で、すべてが、すべての制度、システムが崩壊します。ですから、ワーグナーのメッセージは非常に明快です。

彼は私達に、「このような価値を取り除いてしまえ」と言いたいのです。こうした価値は、人生或いは愛には適していないと明言し、私達に「新しい世界を創れ」と言っているのです。『神々の黄昏』の最後、つまり『ニーベルングの指環』の終焉にジークリンデの示導動機(ライトモチーフ)が登場しますが、この動機がこれ以前に登場するのはたった1度、『ワルキューレ』の中でジークリンデが自分が身ごもったと知る時だけです。ワーグナーのメッセージは本当にはっきりとしていて、1番重要なのは愛である、ということだとわかります。

『タンホイザー』

『タンホイザー』もまた、ワーグナー作品の中では非常に面白く、独特のポイントをついた形で終わる作品だと私は思っています。『タンホイザー』の最後に何が起こるでしょうか?タンホイザーは法王に会って、「ヴェーヌスの所にお前は行ったのだから、許しは得られない。私の杖に緑の葉が芽吹くことのないように、お前も許しは得られないだろう」と言われてしまいます。ところが『タンホイザー』の1番最後で、タンホイザーを追うようにして戻ってきた若い巡礼達が、杖が緑の芽をふいた、ということを教えてくれるわけです。

これは何を意味しているのでしょうか?それは、法王が退位(abträgen)しなければならないと言うことに他なりません。カトリックの制度その物が崩壊すると言うことなのです。法王は「自分の口を通して聞こえるのは神の声だ。神が自分の口を通して語るのだ」と言っています。そして法王の口を借りた神が、「この杖に緑の葉が芽吹くことはない」と言い切っているわけです。でも杖に緑の葉が芽吹いた。つまり法王は誤りを犯したということです。そうであれば、法王の口を通して神が語っているはずはありません。神が間違えるはずはないからです。もしワーグナーがここで言わんとしたことを当時の人々が理解したら、或いは本当に理解しようとしていたなら、多分ワーグナーは投獄されてしまい、その後の作品が誕生することはなかったに違いありません。

『パルジファル』と演出家の役割

ではここで、『パルジファル』から、第1幕、アムフォルタス王が祭壇を開く聖盃の儀式の場面をご覧ください。祭壇を開けて聖盃をグラールの騎士達に見せるのは定期的に行われている儀式です。騎士達はこの聖盃を見ることで力を得て、次の儀式までの時間を乗り切るわけです。祭壇は戸棚のような物で、その戸棚を開けるとカップが一つあるというのがごく一般的なイメージです。戸棚を開くと中に優勝カップのような形の聖盃があり、王はそれを取り出して騎士達に見せてから戸棚に戻す。起こることはそれだけです。ここで、「なぜここにいる騎士達は、このカップを見ただけでまた力を得るのだろう」という疑問がわきます。それが私を1番突き動かした問いかけです。ではそのシーンをご覧ください。

≪『パルジファル』第1幕聖盃開帳の場面≫

さて、私の演出ではカップ、聖盃は登場しません。祭壇ではなく大木の幹を開くと、中には女性がいます。カトリック教徒達が女性の中の女性として敬愛する聖母マリアです。でも、この聖母の役割を演じるのはクンドリーを唄う同じ歌手です。

私がこのアイディアを思いついたのは、「あの聖盃は一体何を表しているのか、何を象徴しているのか」を問い続けた結果です。なぜあのカップを見て男達はその後の数日間なり数週間、エネルギーを、力を得ることができるのか?私の得た結論は、カップを見たところでそのようなエネルギーを得ることはできない、ということです。次に、聖盃は何か別の物を表しているに違いない、と考えました。グラールの騎士達の生きている社会は女性のいない社会です。それは、男達、騎士達が、この世で何か良き事をするためには女性に触れてはならないと信じているからです。

そこで私は考えました。通常のごく一般的な男性であれば、誰でも女性に対して憧れを抱くものです。もし私が女性が完全に排除されてしまっているようなセクト、社会、或いはグループに所属していたならば、女性に対する憧れはきっと残るだろうと考えました。女性に対する気持ちとか憧れを完全に排除してしまうのは非常に難しいからです。そして騎士達の儀式の中に、女性に対する憧れの記憶が残っているわけです。彼等は女性を見てはいけません。ですから、そこに登場するのはシンボルとしての、象徴としての女性です。私の演出では、この聖盃は女性の膝を象徴しているものです。すべての観客にそれをわかってもらいたいと思い、私は、この場合は大木である祭壇の中に、聖盃ではなくて女性を立たせました。その女性はクンドリーで、腕に白い鳩をとまらせています。キリスト教の三位一体で、父と子と聖霊の、聖霊を表しているのが鳩です。舞台は2階建てになっていて、クンドリーが歩いている所をちょうど下で追いかけるように、男達がクンドリーの方に手を差し伸べて、同じように歩いています。

演出家としての私の役割は、ワーグナー作品の「政治的」な次元と言うものを明らかにすることです。(*編集補足:ここで使われている「政治的」という言葉の意味については、後の「会場からの質問」の「ブレヒトと『異化』」で説明されています。)でも中にはこうした私のアプローチを気に入らない方もいらっしゃるようで、プレミエの時には大騒ぎになってしまうことがあります。でもそういう事態が起きるだろうと言うことを考慮して作品を作るわけには行きません。なぜなら、そういったことに配慮したような演出をすれば、私はワーグナーを裏切ることになるからです。

私は、自分の演出がどういう風にして出来上がって行くのかを皆様にお話ししたいと考えています。それは私が、演出は美しいだけでは不十分で、理解できるものであり、私達に大切な何かをもたらす物でなくてはいけないと考えているからです。『パルジファル』では、この世の中で何か良き事をしようと願っている騎士達による男社会が行き詰ってしまっています。アムフォルタス王は死にたいと望んでいて、祭壇を開く者がいなくなってしまっています。ここに登場する男達は決して悪人ではありません。ただ誤りを犯しているのです。彼等には、この世で何か良き事をするためには、女性から離れていなければいけない、女性を遠ざけなければいけないという思い込みがあります。それが誤りなのです。『パルジファル』は非常にアクチュアルな問題をはらんでいると思います。この非常に古い物語は、ワーグナーの解釈を通じて私達に接近してきていると思います。そうして初めてこの劇と言う物が、単に美しい音楽だけではないそれ以上の物、それ以上の意味のある物になるのです。

『さまよえるオランダ人』
演出における、時代置き換えの意味と劇場の役割

次に『さまよえるオランダ人』を取り上げましょう。第2幕は沢山の女性達が糸車の前に座っている場面から始まります。確かに総譜の第2幕の所には、女達が糸車の前に座って糸を紡いでいる、と書いてあります。私は作曲家に大きな敬意を抱いていますので、演出家として是非その指示通りにしたいと思っています。でもここで、昔の道具と今を生きている私達の間の弁証法と言う、非常に複雑な問題が生じるわけです。

ドイツには、「意味を理解するために、時には文字を変えなくてはいけない」という諺があります。そこで私は、この糸を紡ぐと言う行為の意味は何なのだろう、と考えました。総譜に糸車の前に女達が座って糸を紡いでいると書いてあるからその通りにする、と言うだけでは不十分なのです。もう一歩踏み込んでその意味を考えると、彼女達は男を、夫を求めているのだ、という結論に達します。彼女達は、勤勉にせっせと糸車を回して糸を紡いで働けば男を捕まえられる、と思っているからです。そこで、彼女達が夫や男を手に入れるために何かをしていることを見せなければいけない、と考えました。先程、「意味を理解、維持するために、時には文字を変えなくてはいけない」と言いました。もし総譜に書いてある文字に忠実であろうとすれば、今日の私達の生きている今の時代の文脈において、意味が伝わらなくなってしまうと私は考えます。ここで、今話題になっている『さまよえるオランダ人』第2幕の冒頭をご覧いただきましょう。

≪『さまよえるオランダ人』第2幕冒頭≫

(*編集補足:2006年2月26日、バイエルン州立歌劇場で初演されたコンヴィチュニー演出の『さまよえるオランダ人』第2幕冒頭では、男達の帰りを待つ女性達が糸車の前に座って糸を紡ぐと言う伝統的な場面の代わりに、カラフルなジムウェアに身を包んだ女性達が、フィットネスクラブのような場所でトレーニング用自転車にまたがって登場し、論議を呼びました。)

英語のスピニング(spinning)という言葉にはふたつの意味があります。ひとつはドイツ語のspinnenと同じで「糸を紡ぐ」と言う意味ですが、もうひとつは今まさにこの舞台で行われていた「何かを回す」ことです。この場面では、糸を紡ぐと言う伝統的な行為を避けて、私達が生きている今の時代、女性達はステキな男を手に入れるために何をするだろうと考えて、ちょっとユーモアをまじえた置き換えを試みました。

皆様には、このように、昔の出来事を私達の時代、今の時代に引き寄せるというアプローチを是非ご理解いただければと思います。

ネガティブな意味で歴史に忠実であることは必ずしも必要ではない、と私は考えています。特定の社会における劇場の意味とは何であるかを考える必要があります。劇場の役割もしくは機能とは、作品を初演当時のまま舞台に載せることではありません。劇場の役割は、議論をするために、議論を導き出すために意味のあるオファーをすることです。これが私達全員に係わりのあることだと示すこと、そしてそれについて議論することが有意義だと提示する、それが劇場の機能、役割です。作品はその議論のための素材なのです。作品という素材をそのまま取り込んで良い場合もあるでしょう。でも時には「文字を変えなくてはならない」こともあるのです。ここで、『さまよえるオランダ人』からもう1箇所ご覧いただきましょう。ゼンタとオランダ人の出会いの場面です。ワーグナーにとって最も重要なポイントは、何よりも愛こそが大切なのだと言うことだと私は思っていますが、ここでもそれが示されています。

≪『さまよえるオランダ人』第2幕第3場ゼンタとオランダ人の出会いの場面≫

オランダ人は、もう数百年間も持ち歩いている花嫁衣装を携えてダーラント家にやって来ました。彼はずっと自分の花嫁を探していて、多分この花嫁衣装は、既に何人かの女性が袖を通した物です。でもオランダ人は途中でやはりそれを取り返し、去って行ったのではないかと思います。ですから、この花嫁衣装はちょっと古ぼけた感じがします。

数百年も航海を続けているオランダ人と、彼の船の乗組員達は皆、ちょっと古めかしい衣装をまとっています。それに対して、他の登場人物は現代風の服装です。私の演出をご覧になった何人かの観客から、「これを見るまで、ここで出会う二つの世界が全く違う時代だと言うことがわかっていなかった」という感想を聞きました。これはこの作品の非常に重要なポイントで、ちゃんと演出しなければいけません。全く異なったふたつの時代が出会うという点です。片方の登場人物達が古めかしい服装をしていて、もう片方は現代の服装をしていますが、これは決して演出上のギャグではありません。ここで、ゼンタ役の女性歌手は、その古ぼけて時代遅れの服が、彼女にとってこの世で最も美しい服だと言うことをちゃんと感じさせるような、素晴らしい演技をしてくれています。

今の演技の部分も含めて、これは私にとって希望を伝える手段のひとつで、願わくばこの愛が成就してほしい、と言う希望を表す手段のひとつです。それこそが私にとっても最も大切なことで、その願いと気持ちが、観ている人達の心に迫って来るようなものにしたいのです。つまり、私達が心の中に、愛がかかえるリスクを受け入れるだけの勇気を持つ、そういった気持を観客の心に届けたいと私は思っています。そのようなリスクを覚悟の上で愛を自分の中に受け入れる、或いは、リスクを取ってでも愛を成就させたい、愛を大切な物としたい。なぜなら、それをして初めて、私達は自分の人生が終わる最後に、本当に生きたのだと言う確信を持つことができるからです。

オペレッタ『ほほえみの国』

それでは次に、ワーグナー作品ではなく、レハール作曲のオペレッタ『ほほえみの国』の1場面をご覧いただきましょう。ヨーロッパでは、オペレッタはオペラより1ランク低い芸術であるとか、非常に表面的で、楽しいけれども本当に真摯で真面目な人達は見ないという偏見がまかり通っています。でもそれは大きな間違いで、そのような偏見の背景には、オペレッタが誕生してから、余り質の良くない上演が続けられてきたという問題があります。私はこれまでにオペレッタの演出も手掛けてきましたし、オペレッタが本当は素晴らしいのだと言うことを是非皆さんに知っていただきたいと思います。確かにオペレッタはオペラとはちょっと響きが違うかもしれませんが、オペレッタもオペラと同じ位重要なものだと私は思っています。『ほほえみの国』のストーリーを簡単に説明しましょう。

ウィーン出身のリーザという女性が中国に渡ります。彼女は、『エフゲニー・オネーギン』のタチアナと同じような熱烈な愛情を持ち、スー・チョンという名の中国人男性を追いかけて中国に行きますが、愛する人に他に何人も妻がいる等、文化、宗教感、伝統の大きな違いに直面して深く傷つきます。夫が、「他の4人の妻達とは単に形だけの結婚で、本当に愛しているのは君だけだ」と訴えても彼女には通じません。

これからご覧いただく場面は、2人の激しいやり取りがエスカレートして、リーザが初めて「私はもうウィーンに帰る」と言い放つ場面です。『ほほえみの国』の中でも1番有名なヒットナンバーが出てきますが、通常の演出では、テノールが一歩前に出てこの有名な曲を唄うところで物語が一旦停止します。本当に素晴らしい曲ではありますが、完全に物語から切り離された形で流れるのが常です。でも私は、この素晴らしく美しい歌を作品の一部として理解したい、物語の一つの構成要素としてとらえたい、解釈したいと考えました。では『ほほえみの国』をご覧ください。

≪『ほほえみの国』抜粋≫(*編集補足:この最も有名なアリア”君こそわが心のすべて”の場面では、スー・チョンは逃げ回るリーザを追い回し、半ば暴力的に自分のものにしようとしています。)

今ご覧いただいた場面は、私の演出家としての立場を表す好例です。それは、私自身が1人の人間として、コミュニケーションや人と人との間の親密さ、人と人とが感じ合う暖かさに、非常に強い憧れを持っていることと関わりがあると思います。だからこそ、このように、作品の中で愛がかなわない場面が、とりわけ直接的に強く私に訴えかけてくるのだと思います。私の中には、愛がなんとか成就してほしいという欲求、願いが常に存在します。

演劇とかオペラには、ちょっとセラピー的な要素があると思います。演劇やオペラは1人で成立するものではありません。歌手達と一緒に何かを創り上げて行き、カタストロフィーから何とか抜け出そうとするような行為を一緒に体験できるからこそ、そこには何かしら治療的な役割があるのだと私は考えています。自分の中に抱えていた物を外に出すことができるわけです。

『ほほえみの国』を始め、『トリスタンとイゾルデ』でも『さまよえるオランダ人』でも『椿姫』でも、共通して重要なのは、最大の効果をどうやって得るか、ということです。愛が成就しそうにない非常に不幸な状況を、どれだけはっきりと痛烈に表すかです。それによって、観客の心と頭にそのことが深く浸透し、直接的に心に訴えかけるという効果をもたらすことができるのです。そしてそれが今度はひとつのポリティクムとなって、劇場から出た後、次の効果に繋がっていきます。劇場から出て現実に戻った時に、観客が今の状況について考えを巡らすこと、愛が大切だと言うことを考えて、何かしら愛が成就するために自分達の人生を見つめなおし、人生の何かを変えようとするような気持ちを抱くことがあれば、劇場の中で生まれた効果は劇場を離れても続いて行くのだと私は思っています。

それが、今日私が皆様にお伝えしたかったメッセージです。ご清聴ありがとうございました。残りの時間は、ぜひ皆様からご質問を賜りたいと存じます。

会場からの質問

指揮者フランツ・コンヴィチュニーの影響

会場からの質問:お父様である指揮者フランツ・コンヴィチュニー氏から何か影響を受けていますか?

20080901_2コンヴィチュニー氏:父が日本に来たのは1961年のことで、帰国後、日本がそれはそれは素晴らしかったと熱狂的に語っていたのをとても良く覚えています。同様に私も、日本で大変居心地良く過ごせることを嬉しく思っています。一見するとふたつの国は全く違うように思えますが、実際にここに来て歌手や二期会の皆さんとお仕事していると、不思議な位共通する部分が沢山ある、と毎日のように感じます。私達は深いレベルで理解しあえるようです。

私の父は指揮者、母は歌手で、2人共音楽家だったので、私は音楽と共に育ちました。2才の時には無理やりオペラに連れて行かれ、6才くらいになると周りの人達に、「こんな小さな男の子を夜オペラに連れて行くなんてとんでもない」と言われるようになりました。そのような批判には、「別に音楽は邪魔じゃない」と答えたものです。

オペラとコンサートの体験だけでなく、しばしば終演後に、ダヴィッド・オイストラッフ等のアーティストの方達が我が家を訪れ、一緒にパーティーをしました。その頃は理解していませんでしたが、今になって振り返ると、音楽を奏でるとはコミュニケーションを取ることなのだということが良くわかります。そのようなパーティーでは音楽家達が即興でユーモアたっぷりに色々と演奏し、それはとてもオーセンティックで神聖な経験でした。幼い頃から、音楽が直接私に語りかけてくるような、音楽と同じ言葉を語っているような環境にあったのは、とても恵まれていたと思います。

私はオペラでは歌詞よりも音楽の方が重要だと考えています。時折、演出や公演の中で、音楽が語っていることと登場人物達の間で起きていることの間に乖離が生じる場合があります。たとえば、先程の『さまよえるオランダ人』の素晴らしいデュエットの部分はアカペラで始まります。その数小節後に弦楽器が入ってきて、本当に静かなトレモロを演奏し始めます。ここで、ワーグナーがこのような音符を使って訴えている事は明らかです。

この場面は、ドイツ語で言うところの「heilig」な状況なのだと音楽が訴えています。「聖なる」と言う英語の「holy」、教会的な意味合いの「holy」ではありません。ドイツ語の「heil」には「無疵の」と言う意味もあります。「完全で何物にも侵されていない」と言うことですが、正にその意味で「heil」な場面なのです。ですから私はここで、左にオランダ人が立っていて、10メートル離れた場所にゼンタが立っているような演出は良くないと思います。10メートルもの距離があっては、2人の間で本当に優しさとか繊細さ、細やかさ、希望と言ったものが交わされるはずがないからです。

先程ご紹介した『ほほえみの国』の素晴らしいアリアの中に、私は中国人の絶望を聞き取ります。もしかするとリーザが国に帰ってしまうかもしれない、彼の元を去ってしまうかもしれない、そういう絶望が歌の中から聞こえてきます。先程ご覧いただいたような形でこの場面を目にすると、そのような絶望がよりはっきりと音楽の中から聞こえてくると思います。音楽の冒頭は非常に激しく始まります。オーケストラがフォルティッシモの大音量で鳴りますが、なぜそのような始まり方なのでしょうか?通常の愛を唄うアリアであればもっと違う始まり方をするでしょう。なぜこのような始まり方なのかということを考えなくてはいけません。父とは色々ありましたが、これ程集中的でしかも密に音楽と取り組むような、或いは音楽と接するような運命を与えてくれたことに、私は心から感謝しています。

フェルゼンシュタイン、ベルクハウス、ブレヒトとコンヴィチュニー氏

会場からの質問:コンヴィチュニーさんにはフェルゼンシュタインとルート・ベルクハウスという2人の先生がいると言われていますが、お2人から何を学び、それが今どのように結実しているのでしょうか?フェルゼンシュタインはオペラに、演出家が主体となるような演劇の伝統を導入したと聞いています。そしてベルクハウスは、ブレヒトが創設したベルリナーアンサンブルの演出家ですが、それぞれの特徴についてお聞かせください。

コンヴィチュニー氏:私の幸運は素晴らしい父に恵まれたことだけではなく、特定の時代に特定の国に生まれたことです。その時代、フェルゼンシュタインが戦後渡った国であり、そして、ブレヒトが行った先でもありました。ルート・ベルクハウスは私の師の1人で重要な人物ではありますが、正確に言うと、ブレヒトを伝えるための媒体のひとつと私はとらえています。ですから、私の師はフェルゼンシュタインであり、そしてベルクハウスを通じてのブレヒトであると自分では理解しています。

フェルゼンシュタイン

フェルゼンシュタインは、オペラを1度洗い直したという意味において非常に重要な役割を果たしています。当時は精神のないオペラ上演がまかり通っていて、誤った置き換えが広まっていました。それを1度きれいに洗い直したのがフェルゼンシュタインです。もうひとつフェルゼンシュタインが非常に重要な役割を果たしたのは、手法として、歌手に、ただ唄うだけではなく、何を表現したいかを考えて唄うように強要したことです。それまで、歌手というのはただ立って、自分の順番が回って来たら口を開いて唄うという、ただそれだけの存在であることが多かったのですが、フェルゼンシュタインは、自分が今どういう状況にあるのか、歌でもって何を訴えたいのかということをちゃんと考えて表現するよう歌手に指示しました。

ブレヒトと「異化」

私がブレヒトから学んだ最も大切なことは、ある社会において、劇場、劇、歌劇には「政治的」な機能がある、ということです。ここで言う「政治的」というのは、日常的な政治のことではありません。そうではなくて、そこでメッセージに何が込められているのかを見極めること、そしてそれを解釈することです。たとえば『タンホイザー』の最後で、ついに杖に緑の葉が芽吹いたならば、それは一体どういう意味を持ち、どのような「政治的」次元をそこに広げてくれるのかを理解しなければいけません。ここでの「ポリティックス」はギリシャで言うところで「ポリス」のことであり、「公」ということです。どういう次元が開かれるのかを見極めて、それを解釈しなければいけないのです。

これはブレヒトの「異化」の技術です。「異化」という言葉はヘーゲルから来ていますが、哲学的な考え方、思考の構築です。多くの方が「異化」をとても難解な問題ととらえていますが、実は非常に簡単なことです。ここにペットボトルがあり体のとても近くにこうして持っています。非常に近くに持っていると、音がするとか、ペコペコ言っている、という程度の意識はありますが、そもそもそれが何であるのかはわからなくなってしまっています。「異化」の第1レベルは、異質な物にする、異なる物にすることです。その第1段階として、それを遠ざけることで、今までとは異なる物にします。異なる物にしたことにより、別の文脈で同じ物を捉えられるようになります。同じボトルなのに、すぐ目の前にかざしている時とは違う視点で、同じボトルを捉えるようになります。

その次のステップ、第2段階は、またその同じ物を自分の目の前に持ってくることです。でもその時には、一回遠ざけてみたという体験があるので、同じように近づけた状態で見ても、遠ざけてみた体験を踏まえて同じ物を、違う形で感じることができるわけです。

演劇の世界に、この「異化」の非常にわかりやすい例が存在します。ブレヒトの『肝っ玉おっかあとその子供達』の中の1場面です。30年戦争の時代で、「おっかあ」には子供が3人いますが全員死んでしまいます。最初に亡くなるのは軍隊のお金を盗んだ息子です。スピード裁判にかけられて30分後には死刑の判決が下り、それで死んでしまいます。ある仲介者が「おっかあ」の所にやってきて、「これだけのお金を出せばなんとか息子の命は助けられる」と言います。「おっかあ」は仲介者を相手に、いくらお金を払うかの交渉を始めます。その交渉の真っただ中に、舞台裏で大きな音がします。それは息子が射殺される銃弾の音なのです。

「おっかあ」を演じたのは、ブレヒトの妻のヘレーネ・ヴァイゲルでした。このような場面では叫び声をあげて当然です。でもバイデは声を出さずに叫びました。人がひどい状況に置かれれば、通常は大きな声をあげて叫ぶと言うのが当たり前の反応でしょう。でもそこでブレヒトは、「おっかあ」の心の中で何が起きたのか、彼女の中で何が起きたのかを観客により明確にわかってもらうためには、何かを「異化」しなければならない、と考えました。ブレヒトが考えた「異化」は、彼女はこのような場合に人が通常する反応を全部するけれども、声だけは出さないということで、それこそが、その叫び声が私達にとって異なる物、異質な物になったということなのです。まさに「異化」です。ですから私の『さまよえるオランダ人』で、女達が糸車で糸を紡ぐのではなくて自転車を漕いでいるのもやはり「異化」なのです。私はフェルゼンシュタインの手法も、ブレヒトの理論と実践も、同じように非常に自由に自分の中に取り入れています。2人共、私にとっては父親のような存在なのです。

司会:夜を徹して質問会をしたい気持ちは私もあるのですが…

コンヴィチュニー氏:私は一向に構いませんよ。

司会:ドイツ文化センターが困ると思いますので、大変残念ですが今日はここまでにしたいと思います。コンヴィチュニーさん、本日はとても興味深いお話をありがとうございました。