バウアー博士講演会 《タンホイザー》「歌合戦の広間」への注釈

第282回例会 ワーグナー・ゼミナール(206) 2007年9月30日

このたびの例会には、長年バイロイト祝祭劇場の広報部長をつとめていらしたオズヴァルト・ゲオルク・バウアー博士をお招きしました。この日の通訳は山崎太郎さん(東京工業大学准教授)と舩木篤也さん(音楽評論家)です。

「歓びに満ち いざ挨拶を この貴き殿堂に!」
~<タンホイザー>「歌合戦の広間への注釈」

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図版1「歌合戦」ハイデルベルク歌謡本より

 突然ですが、みなさんに質問です。ワーグナーの作品のなかで、歴史的な設定に基づくものはいくつあったでしょうか?

正解は…3作品。<ローエングリン>は936 年のアントワープ、<タンホイザー>が1207 年のヴァルトブルク、<ニュルンベルクのマイスタージンガー>は16 世紀半ばのニュルンベルクが舞台となっています。かなり具体的に場所や年代が特定されていることに驚きます。たとえば<タンホイザー>。ハイデルベルク歌謡本の手写稿におさめられている絵(図版1)をごらんください。史実にもとづき領主ヘルマン、エリーザベトのモデルとなった領主夫人、そして歌合戦に参加した吟遊詩人たちが描かれています。この作品に出てくる場所も、ヴェーヌスベルク以外はすべて実在するそうです。
では、史実に基づくこの<タンホイザー>は、どのように舞台上演されてきたのでしょうか。
「タンホイザーの演出史」をバウアー博士にうかがいました。

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図版 2 ヴァルトブルク

 1842 年にワーグナーはパリ滞在を終え、ドイツへの帰路アイゼナハ近郊のヴァルトブルク城を通りがかりました。(図版2)ヴァルトブルク城といえば、マルティン・ルターが「聖書」のドイツ語訳を完成させた城であり、なによりもワーグナーにとっては1207 年の歌合戦が行われた場所だったのです。「伝説に富んだ史跡、ヴァルトブルク」をはじめて見た彼は興奮が抑えきれず、馬車のなかでさっそく<タンホイザー>の第3 幕の舞台装置の構想にとりかかりました。
この作品の舞台となるのは、第1 幕と第3 幕がヴァルトブルクの谷間、第2 幕がヴァルトブルク城の歌合戦の広間です。初演以来20 世紀にいたるまで、第1・3幕は背景にヴァルトブルク城をのぞむ谷の風景という舞台がおきまりのスタイルでした (図版 3 、図版 4 、 図版 5 )。 じっさいワーグナーの生きた19 世紀といえば「歴史主義」が幅を利かせていた時代で、歴史的な出来事や人物を史実にのっとって正しく再現することが芸術にとって重要だと思われていたのです。

図版3 ドレスデン初演

図版3 ドレスデン初演

図版4 1867 年ミュンヘン

図版4 1867 年ミュンヘン

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図版5 1891 年バイロイト

 

 

 

 

正確に再現することよりも ドラマの要求に沿うか否かが問題だ。

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図版6 1850 年当時のヴァルトブルク

 ところが問題は第2幕です。ヴァルトブルク城の歌合戦の広間、といってもワーグナーが訪れたころ「本物の」ヴァルトブルク城は一部廃虚と化していて、1848 年に再建築されるまでは崩落寸前の無残な姿でした(図版6)。しかも実際のヴァルトブルク城には豊かな装飾のある大規模な広間は作られたことがなかったのです。そこで、ワーグナーは「芸術と平和が宿る貴い殿堂」というにふさわしい「中世風の絢爛たる広間」のイメージで、みずから空間造型をおこないました。

ワーグナーによる舞台の指示には「ヴァルトブルクの歌合戦の広間。背後には眺望が開け、城の中庭と谷間がのぞめる」と書かれています。そして「歌劇 タンホイザーの演出について」と呼ばれる小冊子からは、歌合戦の広間について、さらにこまかなイメージを読み取ることができます。

それによると「歌合戦の広間は開けた空間で、天井は中央部が高く、奥はアーチ状に壁がくりぬかれて、屋外へとつながっています。遥か背景にはヘルゼルベルク、すなわちヴェーヌスベルクがのぞめることになっています。アーチの奥に見える丸い塔の内部には下から階段が通っているという設定で、歌合戦に客として招かれた貴人達はこの塔から端を通って、広間へと入ることになっていました。上手の脇もアーチ状に壁が穿たれており、そこには吟遊詩人や騎士達の彫像が置かれています。柱の向こうには別の部屋があるという想定で、その間は色とりどりの中世のガラス窓で仕切られています。その前には歌合戦の聴衆となる合唱の席があり、舞台前方上手には領主とエリーザベトのための特別席、下手には半円状に吟遊詩人たちの席が並びます。」

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図版7 デプレシンによる 1845 年ドレスデン歌劇場のためのデザイン画

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図版8 デプレシンによるパリ上演の 舞台スケッチ

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図版9

 舞台全体の構図は論理的なドラマトゥルギーにのっとっており、そのため劇中の出来事も理に適って進んでゆくことが可能になります。特定の歴史的建築様式にしたがっているかということは、ここではまったく問題にされていません。じっさいワーグナーは、ドレスデンではロマネスク・ビザンチン様式(図版7)、 パリではゴシック様式(図版8、図版9)を基調としています。 かれは、「ひとめではっきりとわかる特徴を持つ光景」を目指しており、ドレスデンでもパリでも基本的な舞台の配置は変えませんでした。しかも、パリオペラ座の装置家、エドゥアール・デジール・ジョゼフ・デプレシンのデザインしたマイヤベーヤ<ユグノー教徒>の装置(図版10) をみて、すっかり気に入ってしまった彼は、デプレシンをよびよせ<タンホイザー>の舞台デザインをさせました。

図版10 パリ、ゴシック様式の祝宴の間

図版10 パリ、ゴシック様式の祝宴の間

 いっぽう、1850 年代にはヴァルトブルク城は修築されていたのですが、ちょうど<タンホイザー>が人気上演演目となっていった時期とかさなります。ところが、修築されたヴァルトブルク城は歴史的建築様式にしたがって、忠実に再現されていたわけですから、ワーグナーが<タンホイザー>のためにイマジネーションをはたらかせた歌合戦の広間とは似ても似つかないものでした。

図版11 修復された歌合戦の間

図版11 修復された歌合戦の間

図版12 シュヴィントによるフレスコ画

図版12 シュヴィントによるフレスコ画

この城には歌合戦の間と祝宴の間がありますが、歌合戦の間(図版11)は小さくて、天井もさほど高くありません。梁は剥き出しになっていて、二本の木の柱がそれを支えています。この広間には大合唱やソリストやエキストラの群衆が入るだけのスペースはなく<タンホイザー>第2 幕のモデルには適していません。唯一の飾りとして、壁一面に描かれたモーリッツ・フォン・シュヴィントによるフレスコ画がありますが(図版12)、これは1207 年の有名なヴァルトブルクの歌合戦を描いたものです。事件のクライマックス、ハインリヒ・オフターディンゲンすなわちタンホイザーが、他の吟遊詩人の攻撃を受け、庇護を求めて領主夫人の足下に逃れるところです。この絵の真ん中に3つのアーチが架かったアーケードがみえますが、これは歌合戦の間を示す建築上のシンボルとなりました。この絵はとても有名になったので、現在では歌合戦の広間を描いたもので、この3つのアーチがついたアーケードのない絵は存在しないといってよいほどです。

図版13 祝宴の間、ヴァルトブルク

図版13 祝宴の間、ヴァルトブルク

 一方、祝宴の間(図版13)は大きな部屋で、台形の特徴的な格天井があります。こちらは1867 年に修築が完了していますが、こけら落としにはフランツ・リストのオラトリオ「聖エリーザベトの伝説」が上演されました。リストはこの部屋の音響に関し、建築家にアドヴァイスをしたと言われています。
バイエルン王ルートヴィヒ二世は1867 年、ミュンヘンでの<タンホイザー>の新演出の準備のため、舞台装置を担当するアンジェロ・クヴァリオをヴァルトブルクに派遣して、城を模写させました。ルートヴィヒは歴史的な様式にのっとった上演を希望していたのです。クヴァリオが王に送った舞台スケッチはヴァルトブルクの歌合戦の広間をかなり忠実に写し取ったものでした(図版14)。二本の木の柱に支えられた剥き出しの梁もありますし、モーリッツ・フォン・シュビントのフレスコ画に描かれたアーケードもあります。ところが、ワーグナー自身にはそれがどうしても気に入らず、王と口論になってしまったのです。それでも頑として譲らなかったワーグナーは、とうとうミュンヘン上演の際もパリの上演と同じようなかたちで舞台をつくらせてしまいました(図版15)。それでも、この装置はミュンヘンの観客には熱狂的に受け入れられたそうです。

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図版14 ヴァルトブルクのフレスコ画を元に描かれたクヴォリオのスケッチ

図版15 パリの手本にしたがって描かれたクヴォリオのミュンヘンの舞台

図版15 パリの手本にしたがって描かれたクヴォリオのミュンヘンの舞台

コジマの文化政治的戦略

 コジマ・ワーグナーはワーグナーが歴史主義とは相容れない考えだったことはよく知っていました。それゆえ夫なきあと、1883 年のバイロイト音楽祭での<タンホイザー>上演にかんして、「デプレシンによるドレスデンのもの」と書き留めています。バイロイトで「正統な<タンホイザー>」を演出することが自分の使命だと感じていたらしいのです。

図版16

図版16

 ところがその8 年後、1891 年のバイロイトにおける<タンホイザー>の演出で、コジマはワーグナーの求めた「ドラマと芸術上の要請」にしたがった「正当な<タンホイザー>」を放擲し、ヴァルトブルク城の祝宴の間を再現する形で舞台スケッチを描かせました(図版16)。じつのところ、こうした歴史主義への回帰は彼女にとって、文化政治的戦略の一環だったのです。

 実際、19 世紀ドイツの文化政策にとって、ケルンの大聖堂の完成とヴァルトブルクの修築は使命でもありました。1817 年には、ルターの宗教改革300 周年を祝う「ヴァルトブルク祭り」が催され500 人ほどの学生が集結しました(図版17a,b)。その日はおりしもナポレオンがドイツから放逐されてからちょうど4周年にあたりました。この集会はドイツ統一を要求する学生たちによる最初のものであり、ここで「ドイツは一つであり、将来もずっとひとつのドイツがあるべきだ」という決議がだされたのでした。

図版17a,b 1817 年ヴァルトブルク祭

図版17a,b 1817 年ヴァルトブルク祭

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 カール・アレクサンダー大公はヴァルトブルク城をドイツの国家文化財として再建することを決意しましたし、建築家フーゴー・フォン・リトゲンは「女性崇拝によって礼節をはぐくむミンネザングと、この城に大いなる信仰の地を見いだした宗教改革」を再生することこそが自分の務めであると考えました。皇帝ヴィルヘルム二世も、「古いドイツの城は偉大なるドイツの歴史の栄えある証し、国家の宝、愛国心の発揚を促すもの」と言及しています。
つまり、こうしたかたちで、ヴァルトブルクは国家的イデオロギーとふかく結びつけられていくことになったのです。

 ここに目をつけたコジマは、ヴィルヘルム二世にバイロイト音楽祭名誉会長就任を依頼しています。しかも、実在のヴァルトブルク城にのっとった舞台装置を作ることによって、彼女は国家の文化政策への支持を表明しました。これとともに、<タンホイザー>は歴史主義と結びつきをふかめ、ドイツ帝国の国家主義イデオロギーに仕えることになったのです。フランス生まれのコジマは、デプレシンによってフランス化された<タンホイザー>をドイツ帝国に奪還したともいえるでしょう。
歴史主義にのっとったコジマの演出は注目を浴び、スカラ座(図版18)、ハノーヴァー王立劇場(図版19)、バルセロナ・リセウ劇場(1960~61 年、図版20)などでも踏襲されているのがわかりますね。

図版18 スカラ座

図版18 スカラ座

図版19 ハノーヴァー王立劇場

図版19 ハノーヴァー王立劇場

図版20 リセウ劇場

図版20 リセウ劇場

ふたたびドラマへ

図版21 ジークフリート・ワーグナー、1930 年

図版21 ジークフリート・ワーグナー、1930 年

 いっぽう、コジマの息子、ジークフリート・ワーグナーも「性格的な要素」がすべてを決めるとして、歴史的な要素を重視しませんでした。トスカニーニ指揮による<タンホイザー>新演出(1930年・バイロイト)では、広間は左右対称にしつらえられ、壁や柱はロマネスク様式の金地で覆われています。( 図版21)この金地は濃い色彩の衣装を際立たせるのに役立ちます。このとき、彼の異父姉ダニエラ・トーデが中世ハイデルベルク歌謡写本の絵を参考に衣装デザインをしたのですが、タンホイザーは「バイロイト祝祭劇場の裏の夕焼けのような黄金がかったオレンジ色」、ヴォルフラムは「我らがマイスター(ワーグナーのこと)が聖杯騎士のために指定した色」である青と赤の衣装、エリーザベトの衣装は紺碧の空にはえるライラックの茂みの紫色にデザインしました。くわえて、絨毯は深紅だったので、当時この上演は「色彩の狂乱」と形容されたそうです。これを機に、好んで舞台に金地が使われるようになりました。

戦後の<タンホイザー>上演

図版22 ヴィーラント・ワーグナー、1954 年

図版22 ヴィーラント・ワーグナー、1954 年

 1954 年、ヴィーラント・ワーグナーは初めて<タンホイザー>をバイロイトで演出しました。かれもまた、歌合戦の広間を造型するにあたり、歴史的な検証を出発点にはしませんでした。( 図版22)舞台は中世風の彩りなどが全くない精神的空間でした。唯一、左右対称になった広間の高い天井に反射するほのかな金の光が、中世の板絵を想わせます。
この、空間の建築的造型には第二次大戦後のこの時期に、きわめて「モダン」とみなされていたバウハウス様式の構成原理が適用されています。大きな舞台にはチェスの盤のような枡目が走っていて、その上で合唱やソリストがいくつかのグループに分かれ、厳密な幾何学的秩序に従って動くものでした。

ヴィーラントは広大な空間をシンプルなアーチで区切りましたが、これは同じくバウハウスの芸術家でもあったパウル・クレーが1937 年に「陸橋の革命」(図版23)で造型したモチーフを採り入れたものです。Th-38クレーが脅威的なもののシンボルとして用いたモチーフを、ヴィーラントは空間を仕切る道具として使いました。この広間の構成は、形式の厳密さとこわばりが際立っていますが、これは秩序と法の世界、タンホイザーが直面する硬直した騎士社会を表しています。

 ところが、当時の聴衆にとって、この解釈は不可解だったようです。彼らはこの演出を「舞台オラトリオ」のようだと不満を感じ、様式化が極限まで推し進められたヴィーラント演出によって、抽象化の流れは限界点に達したと感じたのでした。

  こうした批評を理解するには、当時のドイツにおいて抽象芸術をどう考えるかがアクチュアルな芸術論争のテーマだったという事情も考慮に入れなければならないでしょう。1955 年にカッセルで開催された第1回現代芸術展(Documenta)で、主宰ヴェルナー・ハフトマンはこう強調しています。
”ドイツはナチスの時代、多くの国が一緒になって、芸術の発展を目指す現代ヨーロッパの潮流から脱落した。それが今でも尾をひいていて、芸術に関する積極的な発言が理解されにくい状況にある。この「現代芸術の」文脈において、人々の理解によれば、ヴィーラントは第三帝国における自らの経験に基づき、秩序や規律を要請する国家体制への批判を、同時代の前衛芸術という手段を用いて行った”というのです。
ヴィーラントの第一次演出(1954 年)と比較すると、第二次演出(1961~64 年)では、自らの急進的な原理を引っ込めたのだという印象を受けます。

図版24 ヴィーラント・ワーグナー、1961 年

図版24 ヴィーラント・ワーグナー、1961 年

 たとえば1961 年の<タンホイザー>演出において、ヴィーラントはたぶんに、父の手法を受け継いでいることがわかります。壁には金地が使われていますし( 図版24)シンメトリーに基づいた舞台構成で、奥が狭くなる遠近法を採用しています。また、壁全体をロマネスク風のアーチで覆い、前方に半円状に合唱を配置したのも、30 年前に父が用いた手法と同じです。唯一の違いは歌い手の演壇を中央に置き、空間にアクセントを添えたことでしょうか。

 さらにその二年後、1963 年と64 年の演出で、ヴィーラントは歴史主義への回帰をはっきりと打ち出しました。ヴァルトブルクの広間は半円状の金地を背景にした何もない平面にすぎませんが、中世の絵画同様に空間の奥行きが感じられないものになっています。この金地によって赤、青、深紅など濃い色彩の衣装がいっそう際立ちます。キリスト教および中世の世界を、かれは「黄金色(黄金時代)」のイメージでとらえました。歌劇<タンホイザー>はヴィーラントによって「キリスト教の世界における罪の問題を扱った論理的考察」だったからです。

図版25 ヴィーラント・ワーグナー 第一幕狩りの一行

図版25 ヴィーラント・ワーグナー
第一幕狩りの一行

 こうした考えから、彼は全幕とおして金地を用いました。第一幕、狩の一行が通りかかる場面(図版25)でも、黄金色の背景と、抽象的な木々の前に、赤い衣装を着た人々がみえます。

図版26 ゲッツ・フリードリヒ 第一幕狩りの一行

図版26 ゲッツ・フリードリヒ
第一幕狩りの一行

 1972 年のゲッツ・フリードリヒ演出(装置、衣装はユルゲン・ローゼ)でも社会批判がテーマになりました。( 図版26、第一幕、狩の一行登場の場面)。 基調となるのは全幕共通で使われる舞台面です。木の板を色々に組み合わせることで、全体が三角形、五角形、六角形とさまざまなかたちになります。

図版27 ゲッツ・フリードリヒ、1972 年

図版27 ゲッツ・フリードリヒ、1972 年

 城の歌合戦の広間( 図版27)では木の板が階段をなして上に行くほど狭くなり、全体が高くなっています。建築学的な意味での広間はなく、ただ木の板の上で演技が行われるのです。歌合戦の開催に当たっては奥のホリゾントに旗が掲げられます。この「広間」の特徴はそこに通じる階段にあるといって良いでしょう。合唱はこの階段から登場し演技空間へとのぼって行くのです。
聴衆はここに舞台と現実の対応関係を直感しました。階段をのぼって広間に入っていく合唱に、緑の丘をのぼって祝祭劇場に入る自分たちの姿を重ね合わせたのです。部屋のかたちをまったくなしていない歌合戦の広間は、聴衆の想像の中で自分たちが座っている祝祭劇場の客席へと変容しました。衣装もこうした想像に力を貸しました。貴人の男達は祝祭劇場の男性客のように黒づくめ、貴婦人達は女性客のように色とりどりに着飾っていたからです。

 この対応関係によって、聴衆は演出家に対してとうとう我慢の限界を超えたと感じました。閉鎖的な人々が一丸となってアウトサイダーであるタンホイザーに迫り、剣を抜いたとき、聴衆の一部も同じように攻撃的になり、口笛やブーイングを舞台に浴びせました。さらに人々の神経を逆なでしたのは、舞台上の貴人たちが黒い革の衣装を着て、銀の剣を腰に下げていたことです。黒と銀という色の組み合わせは葬式の時に用いられるもので、ドイツ人はこれを見るとすぐに「黒い軍団」すなわち第三帝国の親衛隊のエリート達を思いだします。この演出が巻き起こしたスキャンダルはそれまでのバイロイトの歴史の中で最大のものでした。
ゲッツ・フリードリヒはヴァルター・フェルゼンシュタインの弟子で、「ムジークテアター(写実的な音楽劇の演出)」という流れを継ぐ人であり、しかも東独の出身でした。彼は当時、社会主義体制を代表する存在とみなされていて、そんな人間に「西側の資本主義体制」の批判などされたくない、と人々は考えたのでした。東西の対立がこのとき直接舞台に持ち込まれたのですが、この点についてはヴァルトブルクが当時、東ドイツにあったことも考慮すべきでしょう。

 この作品の歴史上の諸関係のなかに「アクチュアルで、現代でも興味を惹くようなものが連想できないか」ということに自分の関心があると、ゲッツ・フリードリヒは述べています。つまり、彼にとっては歴史ではなく、現代にも通じる政治の問題が重要だったというわけです。この「丘の上の歌合戦の広間」が衣装や演技と組み合わさることで(<タンホイザー>においては常に、この三者の関係が評価の基準となります)、「写実的な音楽劇の演出」は聴衆にとって挑発と感じられるほどの具体性を獲得しました。ゲッツ・フリードリヒは歌合戦の場面では「劇的な思想と感情の対立こそが問題になる」というリヒャルト・ワーグナーの見解を自らの血肉としたわけです。ゲッツ・フリードリヒによれば、歌合戦の場面は芸術の持つ力、すなわち「仮面をはがし、正体を暴露し、対立を意識化させる」能力を示すものなのでした。

図版28 ヴォルフガング・ワーグナー、1985 年

図版28 ヴォルフガング・ワーグナー、1985 年

 これに続く1985 年の演出(図版28)で、ヴォルフガング・ワーグナーは<タンホイザー>を「聖なる愛の永遠の力」(第三幕、ヴォルフラムの台詞)に身を委ねた人々のドラマと解釈しました。主要人物達は愛の力を我とわが身に受けて、悲劇的に身を滅ぼすのです。こうした個人に対して、ヴァルトブルクの社会は閉鎖的な精神共同体として描かれます。この社会にとって道徳とは慣習や処世術にすぎません。そこから逸脱する者は許されず、武器で脅され、迫害されるのです。

 全三幕を通じて、円形が演技空間の基調となります。これはすなわち生命(人生)の円環であり、世界全体を現す円でもあり、その上で悲劇が展開するわけです。この円は人生同様、かたちを変えることができ、人間たちや人生の意義を求める彼らの探求に決まった枠をはめるものではありません。唯一、ヴァルトブルクの歌合戦の広間のみが揺るぎなき対極として存在します。しっかりと固定された柱が秩序立って並ぶこの空間は、この社会の思想同様、動かすことも出来ず、硬直して、覆すことのできないものです。とはいえこの空間も吟遊詩人たちが歌の中で、人類の大いなる希望および理想としての愛を称えると、透明になり、光を発するのです。

Th-36 バイロイトにおける最新のフィリップ・アルローによる演出も、ジークフリートや第二次演出時代のヴィーラント同様、中世風の金地が基調となっています。 歌合戦の間は天井の高い円筒状の空間で、全体が金色、壁面には劇場の客席のように幾層にも回廊が重なり、そこに合唱が陣取ります。上から下に透明の光の柱が射していて、ドラマの展開に応じてその色が変わります。この色が黄金色の壁にも反射し、空間全体の印象を変えるのです。この絵はヴォルフラムが歌う場面ですが(図版29)、まわりが金と青と赤の入り交じった空間に変容しているのがおわかりかと思います。

さて、150 年にわたる<タンホイザー>上演の歴史を紹介してまいりました。リヒャルト・ワーグナーがこの作品の歌合戦の広間を造型するにあたって、本物のヴァルトブルク城の歌合戦の間を再現しようとしなかったことがお分かりになったかと思います。また、舞台装置制作にあたって歴史上のモデルを模倣するのではなく、作品そのもののドラマトゥルギーにのっとろうとした場合、作品解釈の可能性が豊かに開かれることも感じられたかと思います。作品を演出するとは、常に作品を解釈することでもあるのです。

※ バウアー博士の講演および、山崎太郎さんの訳を元に再構成させていただきました。